neji

生存報告

1.23.2009

ただいま

ダッカ→コルカタ→ダージリン→バンコク→そして19日に帰国!

久しぶりの日本は…
寒い
接客がさびしい
服がキレイ
空気がきれい!蚊がいない!
そしてなによりご飯がおいしい!

もっと衝撃があるかなとおもったけど、さすがに20年も住んだ国だけあって特に驚きもなくちょっと残念。

新宿の地下で迷いに迷い、友達との約束に遅れ続けた東京の3日間。
バングラデシュの生活がもうすでに夢のよう。

これからは日本の生活。日本のみなさん、会いましょう!

これからもご愛顧よろしくお願いします。

1.12.2009

Indian Chai


Indian Chai
Originally uploaded by azkin
インドのお茶はマサラの味だった。

バングラデシュのお茶はあまーいミルクティーで基本的に紅茶と砂糖とミルクしか入れない。対してコルカタで飲んだお茶は、マサラの味のするお茶だ。バングラデシュの味に慣れた私からしてみれば新鮮な味で、はじめは慣れなかったけど飲んでゆくうちに、そうこなくっちゃと思うようになった。作り方もバングラデシュとは全く違う。コップの中でお茶と砂糖とミルクを入れるバングラに対して、インドのお茶はミルクもお茶っ葉と一緒にぐつぐつ煮て、最後にマサラを入れる。
 鍋の中ですべてが完成するのがインド流。

 驚くべきはお茶のいれもの。バングラデシュでは透明or焼き物のコップで飲むのに対して、インドでは素焼きのコップを使う。しかも使い捨て!一回飲んだら地面に投げ捨ててガチャンと割るのがふつうなのだ。はじめはそれがわからないから、飲んだ後それを返したら、汚い物をみるような目でみられてしまった。土に還るものは、ぽいぽい捨ててゆくのだ。

ちなみにこのチャイワラ(お茶屋さん) DOPEなT-Shirtをお召しになっていました。

インドでベンガル語


日常
Originally uploaded by azkin
 コルカタではほとんどの人がベンガル語を話す。ベンガル語を話す外国人はほとんどいないはずなのに、我々三人がベンガル語でコミュニケーションをとってもバングラデシュのようにびっくりしてくれる人はあまりいなかった。えっ、ベンガル語はなせるのか?と、わいわいがやがや集まってくるバングラデシュの人たちに慣れっこだった私は少し物足りない気もしたが、逆に自然にコトバを返してくれる現地の人たちにとけ込んでいるような、心地よい気分にもさせてくれた。彼らにとって私は異質ではなく、バングラデシュで体験したような目線を集めるような存在ではなかったのだ。その理由はその後訪れた北東部の山岳都市、お茶で有名なダージリンでわかることになる。

 ダージリンにはいわゆるインド人と呼ばれるような人は元々住んでいないし、今もあまりいない。そこはネパール系インド人、チベット系インド人が主に住む土地だ。そこに行って、初めて私はインドが多民族国家のアイコンであったことを思い出すのである。おめめがパッチリ、ラクダの目をするインドもあれば、おめめの細いモンゴロイドのインドもあるわけだ。ダージリンで生まれた人が、コルカタにもたくさん働きに来ている。つまりコルカタの人にとって、我々バングラトリオの日本人はダージリンあたりから来たインド人だという認識を持ったのだろう。だって なまってるけど、ベンガル語話すから。

 また、彼らが我々三人をアヤシイやつだ思う瞬間が訪れる時がある。それは彼らがヒンディーを話すときだ。インドは多言語国家で、主な言語は英語とヒンディー語。ヒンディー語はかの町田健先生がラジオで言っていたのを聞く限り六億人の母語話者がいる上に、インド映画やテレビ番組で使われているために、その周辺国(もちろんバングラデシュも!)の人たちも理解することができる世界的超大言語なのだ。つまるところ、ヒンディーが話せたら、パキスタン、インド、ネパール、バングラデシュ、スリランカ(多分)、モルディブと、インド映画とインドのTVを共有しているIndian Subcontinentでは向かうところ敵なしの無敵言語なのだ。だから当然インド人やネパール人ならヒンディーがわかるはず。
 でも、ベンガル語で話していて突然ヒンディーにスイッチされると我々はさっぱしらからない。わからないでいると、「ほよ?」という雰囲気になる。そこではじめていつもの会話になっていくのだが…
「おまえどこからきたんだ」
「日本です」
「へぇ、日本から…」
「そうです」
「そうか…日本か…  で、ネパールからか?」
「いやだから、日本から!」

日本を知らないのか、信じてくれてないのかわからないこんな状態になることもある。日本から来たのにベンガル語を話せるというのは、コルカタの人にとってはバングラデシュ人ほどの驚きはないようだった。多言語多民族国家の感覚ってこういう事なんだと妙に納得させられた。

 コルカタは外国人旅行者も多く、バングラデシュのように視線を全然感じないで町を歩けてそれが心地よかった。でもとけ込んでいると思っていた矢先、バングラデシュから来ただろうと見破られたことがあった。バングラデシュのベンガル語とインドのベンガル語は微妙に違っている。インドの方が親玉なので、インドのベンガル語が正しいものという感覚がベンガル人の中にもあるようだが(インドに近い地域のコトバはきれいだとみんないう)、それはたぶん一般に受け入れられている関西弁のようではなく、たぶんインドの人からすると、あ、あいつのコトバ田舎くさい、という感覚がベンガル語にあるのかもしれない。顕著な違いは口語の現在進行形の語尾だ…

Ami ashi (私 来る) これは双方おなじ。

Ami ashchi (私 来ている) これも同じ。

Ami ashte si →これがベンガル語の口語現在進行形インドでは言わない。「動詞の不定詞+Si」。なれれば便利で使いやすいのでこっちばっかり使うようになるのだけど、インドではこれをつかわない。

 何気なく話していたマーケットの客引きに、おまえ、「バングラデシュから来たな」、と見破られたときはうれしはずかしのお上りさん気分で赤面してしまいそうだった。

つづく)

1.10.2009

コルカタ


Kolkata
Originally uploaded by azkin

 コルカタという町は不思議な町だった。
 ダッカより格段に大きいし、物も豊富だし、人々の着ている服もきれいでなんと地下鉄もある。現代的な建物もホテルもたくさんある。でもどこかしら時が止まった町のようで、数十年前に進化をやめてしまった町のようにも感じられた。それは町中を駆け回る無数のレトロなタクシーや、イギリス植民地時代に建てられた荘厳な建築物のせいかもしれない。ただ一ついえるのは、これだけ大きい町なのに、発展途上国の首都、バンコクやダッカで感じられるような勢いを少なくともその短い滞在期間中は感じられなかったということだ。かつて栄光を誇ったであろう都は、ムンバイやデリー、そしてベンガロールに主役の座を引き渡してしまったのだろうか。
 
 昨日の夜コルカタに着き、とりあえずホテルで三人部屋を取ってから夜ご飯を食べにいった。夜遅かったせいもあって開いているレストランは少なかったが、客引きの言うままに「ホテルダワット」というレストランに入った。そこで我々バングラトリオはインド料理に出会い、心を奪われることになる。バングラデシュの料理とどこが違うのか、はっきりはわからないけれど、旅行で舞い上がっているのを抜きにしても、格段にインド料理はおいしかった。レストランの片隅に陣取った東洋人3名は、メニューを片手に、とりあえずタンドリーチキン、チキンティッカ、エッグカレーなどなど、思いのままに注文したのだが、出てくる料理出てくる料理、とびきりおいしいので、期待をしていなかった我々は、取り合うようにむさぼり食った。もちろん右手で だ。その後、毎日のようにこのレストランで夜ご飯を食べる事になった。それにしてもインド料理はここまでおいしいのか。歴史の厚みがなせる技なのか、世界中にインド料理レストランがあるのもうなずけると思った。


つづく)

深夜特急 ダッカ出発


Good Bye Bangladesh
Originally uploaded by azkin
 2年住んだダッカからコルカタへ

 協力隊の帰国隊員は、今年度まで帰路変更というのができて、2週間程度日本に着く前に旅行ができる。
行くことができる国は少しばかり限られるが、危険な国でない限りだいたいの国は旅行できる。
バングラデシュから帰る人はだいたい、タイに立ち寄って帰る人が多い。私もタイに行くかインドに行くか迷ったが、隣の国インドを一度も見ないで日本に帰ることはできないと思い、インドに行くことにした。同期の隊員はインドに行っていたので、誰も誘いに乗ってくれなかったが、仲のいい隊員、大小コンビの2人が一緒に行ってくれることになり男3人でコルカタに行くことになった。

 小さい方はハンドボール隊員、なにかと語りが入る沖縄出身のスケ、いつも飲み会では最後までがんばって起きている。もう一人の大きい方は、村落開発のオトコマエノッポ、ジュンノスケ。村上春樹をこよなく愛し、メールの最後に春樹の一文をそえて、受取人の心に深く突き刺す彼。ともに私のバングラ生活を豊かにしてくれた人たちだ。

 基本的に隊員が徒歩でバングラを去る隊員は珍しい。飛行機に乗って上空からバングラデシュを見て、二年間の感慨に浸ることはうらやましかったが、いつもの国内移動のようにゆっくりと車窓からの田舎風景を見ながら出国するのもおもしろいと思った。

 そしてコルカタに向かう僕たち三人は、いつもより高級なバス、「Shohug」の前2列、エグゼクティブクラス850タカ(1400円ぐらい)で悠々と足を伸ばしながら、少々過度の冷房が効いたバスでコルカタに向かった。

 途中、休憩で止まったチャドカンでバングラデシュ最後のチャを飲んだ。チャドカンのおやじは、「日本人の顔はダメだ、きれいじゃない。ヨーロッパ人の顔がきれいだ。」と言ってきかない。客を全くもってもてなさないこの感覚、ドカンとストレートに「Bhalo Na」(not good)と目を見て言ってくる。悪気はないんだろうけど、くやしくもなる。でもこのオヤジみたいなのがたくさんいるバングラ、正直に話せて、人と人とが近くて心地がいいこの国ともさよならだ。最後のお茶はいつも行ってた地元のチャドカンに比べると落ちるが満足の味だった。

 6時間ほどバスに揺られて着いたインドとの国境の町ベナポールは、思っていたとおり閑散としたトコロだった。バスに同乗していたベンガル人たちがそそくさと手続きを済ます中、我々日本人三人は最後尾を走りベンガル人審査官といつもの会話を繰り広げる。「ベンガル語できるのか!?」「何人だ!?」「日本人はいい奴だ」と、ベンガル語ができれば、ベンガル人もうれしがってくれて物事がうまく進むことが多い。 最後尾だったが、何とかインド側のイミグレーションも通り抜けて、バングラデシュの地を後にした。二年間住んだこの国を去るとき、もっと感慨がわくのかと思ったが、旅行をしているという感覚だったからあまり感傷的にならなかった。むしろインドへ行くというわくわく感が私を支配していたのだろう。さらに一人ではなく、周りに2人もいつもの話し相手がいたのもおおきかったのかもしれない。

 インド側の国境は、国力の違いか、やはりバングラデシュ側と比べるとすこしだけ差があるように感じられた。
でも思ったほどたいした変化はなく、結局は同じ文字、同じコトバ、同じ服装、同じリキシャ、同じ顔が並んでいるので、あまり違う国に来たとは感じなかった。一番の違いは、ペイントだ。バングラデシュでは何かと赤と緑を使って町の何もかもが塗られていたのが、インド側に行くと、それがインドのトリコロールカラーになっている。これはその後行ったダージリンでもコルカタでも同じだった。日本人の色彩感覚でいうと、バングラデシュの重々しい色合いよりも、インドの色の方が心地がいい。そして我々三人はインド側の国境でインドのバスに乗り込み、コルカタを目指した。インドはバングラデシュの人から見れば、親玉のようなものであり、一歩も二歩も進んでる国だ。2年間バングラデシュで過ごしたボクも、なんだか田舎から初めて東京に行く人のような妙な感覚で窓の外をながめていた。そしてなぜかワクワクしていた。よく巷で聞く「インドに行って人生観が変わった」「インドに行ってボクは考えた」のようなインドの決まり文句。特に人生観が変わるという話はよく聞くのだが、はたしてどんな衝撃を受けて私を変えてくれるのだろうかという感覚があったからだ。しかし、私のそんな意に反して、窓の外の景色はバングラデシュ側のものと全く代わりのない田舎風景が延々と続いていた。

 その後バスに揺られてぼーっと外を眺めていた私は、知らず知らずのうちに眠りこけてしまったようだ。目を覚ましたとき、すでにバスは光の洪水の中だった。「コルカタ」 インドでも混乱、混沌といったコトバの合う、生活臭に満ちあふれた大都会だ。日本人が想像するインドは、バラナシか、コルカタのどちらかではないだろうかと思う。コルカタの道は広く、車やリキシャ(ここは本当の手で引く人力車がある!)であふれているが、道はダッカのように渋滞したりしてはいない。快調に街中を飛ばすバスから眺めるコルカタは、10年前の大都会のようだった。それはたぶんそこに走っている車がレトロだったからなのかもしれないが、なんとなく、賑やかでいながら、時の止まった、どこか千と千尋に出てきそうな幻想的な夜の風景がそこにはあった。

 バスがコルカタの停留所についたのは夜中の8時過ぎ。ダッカと比べても建物も多く商店の数も質も断然いい。その建物群からあふれる光で、町の一角はとても明るい。バングラデシュより古いようで新しいコルカタは、西ベンガル州の州都で、ベンガル民族が大半を占める。つまり、ベンガル語を話す人たちなのだ。インドを帰路変更にえらんだ理由は、せっかく覚えたこの言葉を違う国でも使ってみたいとおもったからでもある。英語を覚えた自分が、アジアを旅していろいろな人と話をした時のあの感覚を、ベンガル語でも味わってみたかったというわけである。

続く)

1.09.2009

ヒロキワタナベ

 出国の朝、隊員ハウスでたくさんの隊員たちに見送られながら3人でリキシャに乗ってバス乗り場に向かおうとすると。そこから走ってバス乗り場まで見送り来てくれた男がいた。

ヒロキワタナベ、バングラデシュで一番アツい男だ。6年前に単身バングラデシュに乗り込み、エクマットラというNGOを運営するまでになった偉大な男ヒロキワタナベは正真正銘のヒーローだ。体の奥深くからわき上がる情熱とパワーは一言会話を交わすだけで周りの人を巻き込んで行き、脳みそに一本大きな傷を付けられたように強く刻み込まれる。協力隊という選択をせずに単身乗り込み、自分の目で感じ、考え行動し、結果を残す。自分にはとうていできない芸当だ。いつも会うたびに、この人はどこからこんな力を生み出しているのだろうと不思議に思っていた。

 二年間一緒に過ごして思う、それは「情熱」なのだと。
すべては説明できない根源的な感情、それもものすごく強くあふれ出るような感情が彼を突き動かしているのだと思う。彼が毎回セミナーやスピーチで話すことがある。なぜバングラデシュに来たのか。

 それはタイでの話だ。
ヒロキワタナベは青春のエネルギーをヨットに注いできた。大学時代もどうやってヨットが速く進むかを考え、これからもヨットで生活していけたらと考える学生だった。ある国際大会に招かれた時の話だ。タイの国際大会に出場した彼は、ラグジャリーバスに乗っていた。そのとき信号待ちでバスが止まり、ふと窓の外を見ると巨大なスラムが広がっていたらしい。そしてその入り口に男の子がひとりポツリと立っていた。ヒロキワタナベがその男の子に目をやると、男の子も彼を見上げた。
そのときヒロキワタナベの体に衝撃が走った。
なぜ日本で生まれた自分は高級なバスに乗って彼を上から見て、なぜスラムで生まれ育ったこの子はボクをそんな目で見上げているんだろう。なぜなんだ… それから数日間彼はそのことばかりを考えていたらしい。日本に帰ったら忘れるんだろうな、そう思っていたところ、日本に帰ってもその気持ちは収まることを知らず、逆に大きな波のように増幅されて行った。
 大学も終わりに近づき、就職の時期、彼はバングラデシュに行くことを決めた。「多感である大学時代に一番深く心に残ったことに人生をかけてみてもいいと思った」と彼は言う。

この瞬間、一言も会話も交わしていない男の子との一瞬が、彼がバングラデシュに来ることになったすべてだ。
彼に出会う人と同じように、彼もまたその瞬間に脳に大きな傷をもらったんだろう。

果たしてこんな事ができる人間がいるだろうか。いるんだろう。
でも、言葉もわからないままバングラに渡り、言葉を勉強しながら半年でNGOを立ち上げるなんて普通できやしない。少なくとも自分にはとうてい無理なことだ。そのヒーローっぷり、ヒロキワタナベは一人の人間と言うよりもヒロキワタナベという現象のような感じがする。

そんな人に出会えたバングラデシュの生活。とても良かったと思う。
彼のようにはなれないけれど、彼みたいな人、グループをサポートすることで国際援助という参加の仕方があるのだなとも思わせてくれた。帰国以来あんまり連絡もとってないからサポートなんていえた立場じゃないけれど…

ちなみにまだ情熱大陸は彼のことを放送していないけれど、いつかきっと彼のことを特集するでしょう!

*追記
ようつべに彼のインタビュー動画がありました。